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1928年
アンヘル・セフェリーノ・カリオン・マドラソ(ジャン・レオンの本名)は、1929年4月28日サンタンデールにて父アントニオ・カリオンと母アンヘレス・マドラソの間に誕生。コンスエロ、ホセ、コンチータ、セフェリーノ、アンヘリーネス、フランシスコ、フアン・バウティスタ、マリア・デル・カルメン、アナ・マリアの9人兄弟であった。
語るべきストーリーを持つワインは他にもあるかもしれません。
しかし、ジャン・レオンのストーリーほどドラマティックなものは少ないでしょう。
- 2月15日未明にサンタンデールで大火災が起こり、街が破壊される。家族は、より良い生活環境を求めバルセロナに移住。
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1941年
7月1日、父と兄のホセが働いていた商船が爆破され、共に命を落とす。この船はドイツ帝国軍への戦争物資をカモフラージュして運んでいた可能性があり、イギリス海軍によって撃墜されたのではとされている。
- 第一次世界大戦中のスペインは中立の姿勢をとっていたため事件については公表されず、遺族年金を受け取るために非常に不利なこととなった。稼ぎ頭2人を亡くし、一家は困難な経済状態に陥っていく。
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1947年
7月16日聖母カルメンの日、バルセロナのペガソ社でいつものようにプレス加工者として働いたある夜のこと、セフェリーノは家に戻ってシャワーを浴び、身支度をして、母親にガールフレンドの聖人を祝うためディナーに行くと言って家を出た。実際には、家族に告げないまま3人の友人と共にピレネー山脈を歩いて超え、フランスへ渡ったのだった。
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1948年
バイヨンヌ、ボルドー、パリでウェイターや通訳として働き、できる仕事はなんでも引き受けた。フランス滞在中は、一度もスペインに帰ることはなかった。12歳の時に父と兄を亡くした彼は、その不幸の責任は当時の独裁者フランコ総統にあると考えていた。フランコ統治下のスペインに奉仕するつもりは一切なかったため徴兵忌避者となり、スペインの家族の元に帰ることができなくなった。
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1949年
密航船に7回乗り込むも、全て失敗に終わる。(幸運なことに、彼はいつもスペインではなくフランスに戻された) ようやく8回目にル・アーヴルの港から密航に成功。船の蔵に潜んでの決行だった。ところが、その船はグアテマラではなく、アメリカへ向かっていた。
- 航海中、黒人の船員が蔵に隠れたセフェリーノを発見したが、その船員は彼を密告しないばかりか、食料を与え、英語を教えた。2人は厚い友情を築いたが、後年ジャン・レオンが何度も彼の居場所を探したがついに見つけ出すことはできなかった。ジャン・レオンは生涯この船員に恩義を感じていた。「私はこの船員のことを一生忘れない。100万人の中からでも、彼の顔を認識できるだろう。私は彼なしではアメリカに入ることができなかったのだ。まさに守護天使のようだった。」 (ラファエル・モレノ著「ジャン・レオン、ビバリーヒルズの王」からの引用)。こうして無事アメリカに上陸したのち、ジャン・レオンのたぐい稀なアメリカンドリームが始まる。
- ニューヨークに到着したセフェリーノは、父方の遠い親戚が所有する小さなバーで皿洗いとして働き始めた。しかし2日目の夜、彼は公園のベンチで眠っている間にすべての身分証明書を盗まれてしまう。これを機に「フスト・ラモン・レオン」の名で米国に帰化する。摩天楼の街ニューヨークでは、タクシー運転手としても働いた。タクシーライセンス番号は3055だった。
- ニューヨーク滞在1週間後、ロックフェラーセンターの幹部食堂の給仕係としての仕事を得る。当時の有名な経営幹部、政治家、芸術家との最初のコンタクトとなった。彼はこの仕事を愛していたが、半年が過ぎる頃、逃亡失敗後バルセロナに送還されていた元友人達がフランコ当局へ密告したことにより、彼は再びスペインからの亡命者と認定されてしまう。さらに、新にアメリカ市民として兵役志願をするように、米国陸軍から手紙を受け取る。志願するも、実際に朝鮮戦争徴兵召喚を受け取った際には兵役拒否をした。
- その年末に彼は、カリフォルニア州ロサンゼルスに移住することに決め、ハリウッドのサンセット大通りにある小さなホテルに滞在している。マックスウェル・コーヒー・ハウスという非常に慎ましいレストランで働き始め、そこで彼と同じようにスペイン出身だが名前をデュランと言う人物と会い、当時スペインで最も人気のある舞踊家のカップルであった、アントニオとロザリオをテーマに映画を撮影しないかと持ちかけられる。フスト・ラモン・レオンは、この舞踏家達に会いにスペインへ行くため、アメリカのパスポートを初申請した。
- この頃、呼び名はすでにジャン・レオンに変更していたが、証明書などはフスト・ラモンと記されている。アメリカでの将来を見据えて正式にジャン・レオンと改名する。それは彼が好きなフランス人芸術家の名前だった。その年、フラメンコのダンススタジオを持つリタ・ヘイワースの叔父、ホセ・カンシーノと友好を結ぶ。
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1950年
スペインへの旅行の際、ニューヨークージブラルタルーマラガーマドリードーバルセロナと移動し姉妹の結婚式に出席したが、式はセフェ(家族内ではこう呼ばれた)がスペインへ帰国していることを周囲に知られぬよう、地元から離れた会場で行われた。
彼はマドリードで大晦日を過ごしアメリカに帰国。その後12年間、家族とは音信不通となる。家族はアメリカ領事館に繰り返し問い合わせをしたが、実名のセフェリーノで登録されていなかったため、見つけ出すことは不可能だった。家族は彼が亡くなったものと思っていた。
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1951年
ジャン・レオンはアメリカ陸軍工兵隊に徴兵召喚されたが、朝鮮戦争参加前に7週間の訓練があることを知りメキシコに脱出。シウダード・ヘレスとテキサスを通過した後、逮捕される前に自身で帰還した。召喚されていた者はすでに戦地へ送られ、遅れた彼もサンフランシスコ(韓国への出航港)に連れて行かれるが、サクラメント川隣の軍用地から再び逃亡する。幸運にも、1951年の夏には戦況が停滞し、国連が休戦を提案した。
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1953年
ジャン・レオンは、ハリウッドに戻り、すぐに2つの人気レストランでの仕事に就く:
「ヴィラ・ノヴァ」と「ヴィラ・カプリ」。後者は、フランク・シナトラと伝説的野球選手ジョー・ディマジオが所有していた。ウェイターとしての夜の仕事とタクシードライバーとしての昼の仕事を両立させていたが、英単語さえ知らなかった彼にとっては大変なことだっただろう。しかし、ジャン・レオンの裁量とプロ意識は功を奏した。すぐにシナトラのもっとも信頼出来るアシスタントとなり、シナトラも彼がハリウッドの環境に慣れるよう便宜を図った。こうして彼は、ナタリー・ウッド、グレース・ケリー、ジェームズ・ディーンといった黄金時代の映画スターを知ることとなる。
- ジャン・レオンは、将来のパートナーで親友であるジェームス・ディーンに、彼の息子のゴッドファザーになってほしいと提案し、ディーンは喜んで受け入れた。
1955年9月30日、ジェームス・ディーンは、カーレースに出場するためロサンゼルスからサリナスに行く途中、致命的な自動車事故に遭い短い命を閉じた。逆方向を走ってきたフォードとの正面衝突だった。ディーンは新しいもの好きで夢見がちでジャン・レオンを非常によく理解してくれていた。まだ若いディーンを失い、ジャン・レオンは深く落ち込んだ。
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1955年
ジェームズ・ディーンとジャン・レオンは友情を育み、ハリウッドで最も有名なレストランの開業という夢の実現に向けて協力しあった。ディーンは、すでにワーナーで「理由なき反抗」や「ジャイアント」などの主役を演じ、良好な経済状況にあった。レストランの開店の必要経費約10万〜20万ドルはディーンが出資し、ジャン・レオンがレストランの顔となる予定だった。ジャン・レオンはすでに「ヴィラ・カプリ」の向かい側のテナントに目星をつけていた。
- この頃のハリウッドにはすでに良いレストランが存在したが、「ラ・スカラ」には特別な魅力があった。居心地の良い円形のテーブルにエレガントな装飾、店全体には優雅な雰囲気が漂い、ゆったりくつろげる空間となっていた。ジャン・レオンは「ヴィラ・カプリ」でウェイターをしていた頃、アメリカでイタリア料理が非常に好まれると気づいていたので、地中海料理の中でも特にイタリア料理を中心に料理を揃えた。レストランの地下貯蔵庫には約25,000本のボトルが保管され、世界で最高のワインが常備されていた。
- 80年代に流行したヌエバ・コシーナ(新しい料理)の先駆者であり、提供するサービスの質の高さから、当時のイタリア政府は「ラ・スカラ」をアメリカにおける最高のイタリア料理大使と認識していた、とジャン・レオンは述べている。ほどなく「ラ・スカラ」は最も影響力のあるハリウッドセレブや音楽家、政治家の社交場となった。その中には、マリリン・モンロー、ザ・ザ・ガボール、ジョン・F・ケネディ、マーロン・ブランド、ロバート・ワーグナーなどがいた。当時ベストセラーとなったジャッキー・コリンズやジュディス・クランツの恋愛小説の中で、ジャン・レオンとレストラン「ラ・スカラ」がカリスマ性をもった架空のキャラクターとシーンとして登場したことが、さらなる名声をよんだ。
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1956年
ディーンとともに開く予定だったレストランのプロジェクトは数ヶ月停止していたが、ジャン・レオンは、ディーンと描いた夢を一人でも継続することを決意。1956年4月1日にサンタ・モニカ通り9455番地に「ラ・スカラ」を開業した。そこはレストランでその後30年以上も総料理長を勤めたエミリオ・ヌニェスの叔父が所有した、第一ナショナル銀行旧本社の地下バーのあった場所だった。
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1962年
イタリア滞在中のとある午後、ジャン・レオンは、電話帳でカリオンという姓を見つけて電話をかけ、実の姉妹と話すことができた。行方不明から12年後、彼の家族が亡くなったものと思っていたセフェリーノは、外国人のようなアクセントで、現在アメリカに住み、ジャン・レオンと名乗り、ハリウッドで最も豪華なレストランの1つを所有し、結婚して2人の子供がいると説明した。カリオン一家はセフェリーノの無事を喜んだが同時にあまりにも驚いて、にわかに彼の言うことを信じることができなかった。
- バルセロナへの旅の折にはペネデスを訪れ、彼の人生第2の夢であるワイン造りのために最良と思われる土地を視察。それは、「ラ・スカラ」の特別な顧客にふさわしい上質なワイン造りをするためであった。はっきりした個性を持つユニークなワインを作るために必要な特徴あるテロワールを求め世界を旅したあと、ペネデス地区でワインを造ることを決定した。
同年、ペネデス地区で最良の土地150ヘクタールを取得し、醸造学の学生であった21歳のジャウマ・ロビラに将来のワイナリーチームに参加するよう提案。 1969年ジャウマ・ロビラは、ジャン・レオンとその兄弟2人が経営するワイナリーに入社
- ジョー・ディマジオとフランク・シナトラがオーナーだった「ヴィラ・カプリ」でジャン・レオンがウェイターとして働いた時代、マリリン・モンローはディマジオの妻であった。マリリンはジャン・レオンととりわけ仲が良く、彼が「ラ・スカラ」を開いてからも足繁く通った。ジャン・レオンは、彼女の好きな料理の一つ「マリリン風フェトチーネ」をメニューに加えた。 8月4日の夜、マリリンはハリウッドにあるブレントウッドの自宅で、このパスタをジャン・レオンに配達してと頼んだ。公式にはその数時間後、抗うつ薬の過剰摂取で亡くなった。生前の彼女を最後に見た一人として、ジャン・レオンは証人尋問を受けている。 後年、ジャン・レオンは、セバスティアン・モレノ著「ジャン・レオン ビバリーヒルズの王」の中で、その夜マリリンは一人ではなく、ロバート・ケネディと一緒だった、と述べている。マリリンとロバート・ケネディーは非公式だが愛人関係にあるとされていた。
- 年末にはジャン・レオンは彼の妻キャティと2人の子供を伴い、彼の母親や姉妹と再会するためバルセロナに戻った。ジャン・レオン以外、両家族とも、もう一方の存在を知らなかった。カリオン一家は新たな幸福に包まれることになり、特に母親は喜んだと言う。
- ブドウ畑「ヴィーニャ・ラ・スカラ」に初の植樹。石灰質と石の多い粘土質のテロワール。
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1963年
地元のワイン生産者の驚きをよそにジャン・レオンは、権威あるフランスのワイナリーからカベルネ・ソーヴィニヨン、カベルネ・フランとシャルドネのブドウの苗を取り寄せ接木した。この異例の決定がスペイン初のカベルネ・ソーヴィニヨンワイン誕生の布石となる。
- 11月15日には、ペネデス地方に純粋なボルドーシャトースタイルのジャン・レオンのワイナリーがオープンする。
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1967年
ブドウ畑「ヴィーニャ・ジジ」にシャルドネを初植樹。石灰粘土質でコンパクトなテロワール。
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1968年
ブドウ畑「ヴィーニャ・ル・アーヴル」に初植樹。石灰粘土質のテロワール。
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1969年
カベルネ・ソーヴィニヨン初の収穫。当時はジャン・レオン・グラン・レゼルヴァと呼ばれたが、後にヴィーニャ・ラ・スカラ・カベルネ・ソーヴィニヨン・グラン・レゼルヴァとして醸造される。
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1971年
ジャン・レオンは、「ヴィーニャ・ラ・スカラ」で収穫されたブドウで造った初ヴィンテージワイン(1969)の全てを、自ら所有するビバリーヒルズのレストラン「ラ・スカラ」に送った。これがスペイン産初のカベルネ・ソーヴィニヨンのワインとなった。
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1973年
ヴィーニャ・ジジ・シャルドネ(1971)の初ヴィンテージを発表。スペインで初めて、樽で熟成させたシャルドネワインであった。
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1981年
ジャン・レオンは俳優時代のロナルド・レーガンに知り合っており、彼らの友情はレーガンが政治家となってからも続いた。共和党のレーガンは冗談交じりに、もし民主党支持のジャン・レオンが共和党に投票し自分が大統領に選出されたら、叙任式でのワインはジャン・レオンを使う、と述べた。 ジャン・レオンは友情は政治を超えるよと答え、レーガンに投票した。 見事大統領に就任したレーガンは約束通り、1981年1月20日のカサ・ブランカでの大統領就任式典でヴィーニャ・ラ・スカラ・カベルネ・ソーヴィニヨン・グラン・レゼルヴァ(1975)とヴィーニャ・ジジ・シャルドネ(1980)を振るまった。
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1991年
ブドウ畑「ヴィーニャ・パラウ」にメルローを初植樹。粘土石灰質と砂礫質2種類のテロワール。
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1993年
雑誌「ワイン」が、ジャン・レオンの1983年産カベルネ・ソーヴィニヨンを最高ワイン8本の1本として選ぶ。
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1994年
進行性の喉頭癌と診断されたジャン・レオンは、アメリカの起業家達が提示する好条件の申し出を断り、ワイナリーの継続とワイン造りをミゲル・トーレスに託す。ジャン・レオンのワインはその個性とアイデンティティを保ったまま、トーレスの傘下となる。
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1996年
ジャン・レオンは残りの人生を愛船「ラ・スカラ・ダモーレ」で航海をしながら過ごし、10月6日に永眠。.
- 先見の明と情熱、型破りな性格で大きな夢を実現した彼が1994年にトーレス家へ託したワイナリーは、ジャン・レオンの理念に忠実でありながら革新を続け、気品のあるワイン造りに努めている。夢を実現するために邁進した男が編んだ歴史を継承するために。